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京都の、ちいさな、まちかどから
2016. 1. 18京都のまちのちいさな場所から、子供から大人まで一緒に遊べる時間を。
fuyuco.主催でお昼のイベントを開催します。
お昼間しかなかなか出れない、という方、子供が泣いたら心配という主婦の方、
身体の都合で夜外出できない、という方。いろいろな方とお話していて、昼間にイベントを企画しました。
交流の場、音と笑顔が溢れる場所になれば嬉しいです。***********
「京都の、ちいさな、まちかどから」
2016.2.11
喫茶店 uzu ビバレッジ
14:00~16:00
・fuyuco. ライブ
・K:soul:y a.k.a. YAN ピンアートワークショップ大人 2000円
小学生以下 1500円
3歳以下 500円
(1ドリンク付き)
※お席に限りがあるため、定員に達し次第、受付終了とさせて頂きます。休日のお昼、素敵な空間で、大人も子供も一緒に楽しもうというこの企画。
第一回目の今回は、四条大宮の団地にある素敵なカフェ、喫茶店 uzuビバレッヂにて開催。
ゲストには、東京を拠点に、全国でライブアートの活動をしているK:soul:yこと、YAN氏を迎えて、絵を描くワークショップを行います。
皆さんは、ボーリングのピンを触って、手にとったことがありますか?
身近でな遊びで、私達に楽しい時間を作ってくれるボーリングのピン。
私達が楽しい時間を過ごしている背景で、年間50万本ものピンがゴミとして捨てられています。
ピンアートの第一人者、YAN氏と一緒に、
そのいらなくなったボーリングのピンに絵を書いて、自分だけのピンアートを!!
ご来場の皆さんにボーリングのピンをプレゼント。(提供:笹塚ボールさん)
お手持ちの絵の具や、貼り付けたいシールや、木の葉、なんでもお持ちいただいてもちろんOK。
手ぶらで来ても、絵かきのYAN氏が絵の具やペンキを貸してくれます。持ち帰りが厳しい!!という方には、完成品の郵送も行います。(別途送料要)
休憩に美味しいコーヒーやジュース、お菓子と、fuyuco.のライブをお楽しみ下さい。
2時間という短い時間ですが、京都の街の、ちいさなまちかどで、
忘れられないような楽しい時間を一緒に作りましょう。
**************ご来場お待ちしています。
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東京CITY。
2016. 1. 14今年はもっと東京が近くなる気がする。
再会や、出会いに満ちた1日。
なによりも音楽を受け取ってくれた方たちの満足そうな言葉と笑顔に力を貰った。
再会を誓って。
photo:yasutaka sanjo
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1月9日。
2016. 1. 131/9 祖父の命日で名古屋へ。
あっという間に一年一年、時間が過ぎて行く。
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私の祖父は数学の教師。
数学を楽しい身近な学問に感じれる様にと、晩年は数学の教え方を研究して、病気で意識が朦朧とするまで、ずっと数学の勉強を続けていた。
(私は数学が苦手で苦手でどうしても好きにならなかったのだが。)楽しい教え方をと、
自分で電車に乗って、その距離や時間で速さを調べたり。
積み木のような木のブロックで分数を教えたり。
世界地図を切り取って陸と海の分量を量りにのせて教えたり。祖父の勉強机はカッター鉛筆の後で表面が、ボコボコで。
万年筆で、小さな文字で、数式を書き続けて、
ずっと机に向かっている祖父の姿が私の記憶にはのこっている。反面、マージャンとお酒が好きで、徹夜でマージャンにいくこともしばしば。
山が好きで、尾瀬に魅せられて晩年体が不自由になるまで、尾瀬に歩きにも行っていた。亡くなったあと、祖母の写真でその友人達との姿をみたけれど、赤い顔をして、居酒屋で笑っている笑顔はなかなかダンディなかわいいおじいちゃん。
祖父はそんな人だった。
いつかフーと山へいけたらなー!
フーが嫁に行く姿をみたいなー!!どちらも叶えさせてあげれなかったけれど、
病室で最期の日々も少しでも一緒に過ごせた事はとても嬉しいことだった。
音の無い病室で、私はラジカセを持ち込んで、
どんな音楽が好きなん??と聞くと、
祖父は、ロシア民謡、ベートーヴェン、朝鮮のうたが好きだといった。
一緒に病室でそれらの音楽を聴いた。
猫のぬいぐるみをお見舞いにもっていったら、それを大事にしていたそうで、
看護婦さんに、「これを孫がくれた!名前はクロだ!」
と話していたそうな。今思い出しても泣けてくる。
死にたい、辛い、最期はそんな言葉を口にしていけれど、最期まで戦って、生き抜いた姿は忘れない。
だいぶ前のことのように思うし、最近のことのようにも思える。
確実に私の中には祖父の生き様が刻まれている。
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今年は、家族が集まることができた。
早く着いたので、
かつて私が子供の頃遊びに行った祖父母の家のあった場所を見にいくことに。
家の近くにあった商店街はもう姿を消していた。
でも近くにあった公園とココストアはそのまま、全く変わらない姿で今もそこにあった。
お小遣いを貰って姉とお菓子を買いに行ったこと、公園で姉と遊んだぼんやりとした記憶を思い出す。ここかな?あ、ここだ!
家のあった場所を見つける。
家のあった場所には新しい家があった。生活のあった場所に別の新しい生活がある。
駐車場とかでなくてよかった。なんだか、さみしい気持ちと同時に、そこに生活があることを嬉しく思った。
そのあと、家族でご飯を食べて。
翌日の東京のため、私は1人名古屋駅へ。
すると祖母が、名古屋駅へ行きたいと言い、
2人で名古屋駅へ行くことに。
そういえば、祖母と2人で街に行くなんていつぶりだろうと思った。
その時は、祖母は杖をついて無かったし、歩くのももっと早かった。年をとったな。と思う。
背の低くなった祖母をとても愛しく思った。
2人で夜景を見ながらお茶をした。
ふゆちゃんは悩みはないの??
たくさんあるよ。でもそんなもんだよね。
もう、30歳だもんねぇ。
なんて話ながら。
そのあと2人で電車で栄まで。
私は個人練習のスタジオへ。
祖母は家へ。別れる時のさみしそうな顔が、
とてもとてもさみしかった。
年をとるさみしさや、心細さ、
家族や伴侶を失う悲しみ。私には祖母の気持ちはわからないけど。
私もいつか、年をとって、その気持ちを知っていくんだろう。
きっとその時、今の祖母の気持ちが少しわかるのかも知れない。
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ちなみにこの祖父母が、トーストとコーヒーとゆでたまごのおじーちゃんとおばーちゃん。
喧嘩ばかりしていて、でも、2人で毎朝同じ食卓を作ってた。ミスマッチにみえる2人だったけど、なんだかんだ、2人でずっと一緒にいたおじーちゃんとおばーちゃん。
2人の遺した生活の記憶は、私の心に刻まれてる。祖父の居なくなったあとも、祖父を失ったという感情がたくさんのことを教えてくれる。
祖父への感謝と。
祖母のこれからの日々に祈りを。
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新しい日々がめぐる。
2016. 1. 7初ライブ。
やはり新年初ライブってのは、どこか心がしゃんとする。
ステージってのは、やっぱり特別な場所だと、今日改めて思う。
剥がれる感じ。
その緊張感と開放感。どうしようもない高揚がある。
そして、新年不思議な再会もあるものだ。
つい先日、京都のミュージシャンが1人亡くなった。
そのミュージシャンに誘われて、3年前大晦日みんなで過ごしたバーのマスターと、共演者として再会したのだ。
彼が居なければ、今日初めましてだったかもしれない。
人のエネルギーを感じる出来事。
彼の残した人生のほんのわずかなひとつ。
念っていうものかもしれないな。人は人に、いろいろな想いや、出会いや音や、遺してくんんだなって。
それが生きる証なのだなって。
そんな今日、素敵なスタートを切りました。
今日をくれた皆さん
ありがとう。
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祈る人。
2016. 1. 4今年最初にしたことは、お祈りだった。
今迄の感謝、そしてそばにいる人を思って手を合わすことから始まった2016年。今朝、スケジュールミスで無駄に朝早く起きて家を出てしまったため(得意技)バス待ちの時間が30分。
そうか、まだ1月の3日だったかと改めて気づく。
バスの本数が正月ダイヤのため、劇的に少なかったのだ。時間を持て余した私は、バス停前にある教会へ行くことにした。
京都には解放された教会がポツポツとある。
特に街中にある、この教会は本当に開かれていて、門の前には「誰でもご自由にお入りください。」と文字がある。
以前は私もふらっとよく立ち寄っていた。
のんびり出来て、いろいろ考えるにはとてもいい。初詣もまだだったので、久々に、今年はここから始めよう、そう思い中に入った。
今日は新年のミサがあったらしく、入り口にはたくさんの人がいたけれど、教会の中には2人女性が座っているだけだった。
入り口を
入ったところに、数枚の教会の便りが置いてあった。
よくある学校新聞のような、この教会のお便り。ふとそれを読み、思わずポケットにしまった。
”「喜捨のすすめ」
慈悲喜捨という仏教用語がある。ここではこの言葉をキリスト教的にとらえてみたい。
慈悲は慈しみの心を意味する。
「喜」とは、隣人と喜びを共にすることであり、
「捨」とは自分の思いを捨てることである。
慈しみの心には、この喜捨が伴わなければいけない。”その便りには、隣人と喜びを共にすることの難しさ、自分の幸せでなく相手の幸せを受け入れる難しさ。
喜と捨が伴わない思いは怒りに変わりうること。
そして、神のように慈しみ深くなれない自分を素直に認め、みつめることが説かれていた。新年早々、自分の欲や、未熟さをヒシヒシと感じる出来事があった。
自分と人は違っていて、互いにあまりにも不完全であること、
理解して全てを受け入れることはとても難しいこと。カーペンターズの歌詞にある「不完全な世界で完全を求めてる」この言葉に打ちのめされて、自分の愚かさを感じていた。
その私に、みえない力のメッセージのような気が本当にした。
傲慢だったと。
今の私に必要な言葉で、こういった目に見えない導きとはなんて優しいんだろう。
涙が出そうになった。人間は不完全で、不確かだからこそ、宗教というものはこんなにもこの世にあって、
人はそれに支えられ、生かされているのだなと思った。私は無宗教で、どの宗教に属しているわけではないけれど、
どの宗教もそこにある教えは清く、美しいものだなと思う。
祈るという行為は本当に美しい。心の中に、みえない力というものを感じる。
それを神と呼ぶか仏と呼ぶか、わからないけれど、
確かにそんな力を感じた1日。
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2016年
2016. 1. 2
あけましておめでとうございます。今年がどんな一年になるかって、わからない!!!
けどきっと素敵な一年にしていきましょう。
温かく優しい一年がみんなにも私にもありますように。
今年もよろしくお願いします。